近所の公民館に集まって今日は一日たくさんの活動をした。最後は肝試し。寺が近くて墓やお地蔵様がたくさんある山での手作りの肝試し。怖くて、そして面白い笑。 この地元でずっと歴史あるイベントなんだそうだ。
しかし今日は軽いトラブルがあった。最後の花火のときに参加父兄の1人がいわゆる「酔った勢いで」「酒乱で」のことだが、こどもたちに頭に来ている、いつもふざけている、こんなこどもたちは初めてだ、花火なんてやめちまえ、などと大声を出した。不思議とこどもたちはさほどのショックもなく、しずしずと花火を続けていた。こどもたちは日々いろんな叱られ方をされていて、メンタル面がタフなんだな、と知った瞬間。
しかし、私はずっと内心怒っていた。カメラ+ステディカムという最強の鈍器も持っていたし(笑)反論とかしちゃいたい、って思ったりもした。まあそんなことをしたらもっとイベントがぶち壊しになるし、相手は酔っぱらって通常のバランスを崩している、要するに頭がおかしくなっているのと同じなので議論する価値がないのだ、と言い聞かせてがまんした。
家族に聞いても「ユウジは関係ない」と言われたので関係ないかもしれないけど、ボクの子供との接し方は完全に常識はずれなので、さすがにちょっと気になっているのだ。 ボクは子供とすぐに結構深いレベルでうち解けて同じ目線で会話してしまう。大人と子供、というよりもだいたい対等みたいな立場で。
そして、自分の育児論でも大人と子供の上下関係について、「成果主義、実力主義」を導入している。大人だからエライのではなく、各論点で議論してもっともだという意見に従おう、大人の言うことを聞け、ではない、という独特の意見だ。だから子供の意見をしっかり聞いて、良いポイントには大きく賛同する。 大人なんてたいしたことないよ、おまえらのほうが正しいときはそれでいけ、というのがボクのメッセージなのだ。
そんな非常識な発想が家庭の中だけなら社会には無害といえても、こうやって夏休みの活動をしていると自分とユウキ君の関係性とか、しばらく過ごしているとこのお父さんはユウキくんに蹴られたり殴られてたりしているとか、おかしなことがいっぱい出てくるわけなのです。(蹴られたりしているのは今お友達同士でも殴り合いは学校でも問題になり不可能なので、じゃあ俺を殴れ、ということになっております。オレも殴り返すのは当然として。大人の身体は丈夫なのでどこまでの力が許されるのか、という練習にもピッタリ。)
今回の肝試し&花火大会について大人同士で話していたらなんと、昭和50年代の当時、このイベントは大人抜きで子供達だけで楽しんでいたものだった、という驚きの話が出てきたのです。肝試しは今回のよりもずっと暗く怖い山奥に向かうルートで、下手をすると行方不明の子供が出ても不思議がない、というレベルで、花火も子供だけでやる、というのは今の常識では考えられないものでした。
そこで「今は親の過干渉なのかな」という意見が出てきた。そうか、、、子供同士が自宅に友達を招く場合、一週間から半月前にアポイントするのが今や普通だ。今回のイベントも基本的に大人がべったりだ。それをなんの疑問もなく当然と思っていたが、昔は違った、というのだ。
なるほど、そこまで考えると「今の子供達はダメだ、ふざけている」という酔っぱらいの大声にも一理あるような気がしてきた。その子供をダメにしているのは大人の過干渉だとしたら、大人はダメでふざけている、ということでもある。
最後のところに同意。
でも、世代による変化はいかんともし難い。
その時代の趨勢が、是になってしまうのが社会。
僕等の世代は、よく近所のオジサン、おばさんに怒られたものです。
自宅だけでルールを学んだというより近隣の人にもルールを教わった気がします。今はそれがなくなったのが寂しいですね。
今の子供を見てますと、綺麗な子供が増えてますが、昔のようなたくましい子供が減ってる気がしますね。生命力を感じなくなった。
豊さなんですかね。何になりたいか?がなくただエレベーターのように上の学校に行くだけって感じます。
morimori様、近所の人は今、子供に直接言わないで学校に通報してしまうことがあるのです。そうすると妙に大掛かりになってしまって子供への再発防止策、という感じに発展したりします。 他人の子供をしかることの怖さがあります。昔はしつけも「助け合い」だったと思います。みんなである程度子供を見張っていた。 今は他人に干渉してはいけない時代です。 おそらく他人に干渉してはいけないというルールとか、パーソナル重視、過度の核家族化みたいのがだんだん弱体化していくような予感がしています。 逆に大家族というか、複数の家族でまとまってチカラをあわせて生きていくような感覚、そんなのがここ最近自分自身の実感として生まれてきている気がしています。 (ふざけて書くならば一夫多妻制とか、重婚とか、とにかく広い意味での大家族みたいな感じとか、、)<妄想入りすぎ
日本は「こどもの国」になっちゃいましたからね。
この傾向にはますます拍車が掛る気がします。
事故や犯罪には大人が目を光らせるべきですが、
周りの大人たちが関りを嫌がり、何もかもにも蓋をして
最初から禁止してしまっていては何も学べません。
間違った事をしていたら、堂々と「そんなんしたらアカンぞ」と
叱る事が大事だと思います。
私も近所の子が悪い個と危ない事をしていたら叱るし、
うちの子供たちも近所のおっちゃん、おばちゃんに叱られれば
(時にはこづかれても)イイと思います。
僕の子供時分はそうでしたよ。
時代が変わろうが、変えちゃイケナイものもあると思ってまーす。
yukinyaa様、江戸から明治、昭和、平成、、時代とともに日本人のあり方もおもいっきり変化してきたと思います。好ましい変化とそうでない変化があるような気がします。草食系男子の話などを掘っていくと、軟弱で困る、という年上世代の心配をよそに、草食世代は時代の空気に順応してるんだとわかってきました。 ただ「教育」はある程度子供になにかを与えられると思います。与える側の価値観が旧型ポンコツで無意味なことも多いとは思いますが、いろんな思いがぶつかりながら、新世代に引き継がれていくのかなと思います。
まるめ様、力強いご意見ありがとうございます。しかし私先日高校生くらいの集団の公園で一人が飲んだペットボトルをぽいって滑り台の上に投げ捨てて行ったとき、なにも言えませんでした。ユウキくんが拾って帰ろう、って提案したのでしかたなくリュックに入れて自宅に持ち帰りました。
結局、しかとするしかないって事なのでしょうかね?
なら、陰湿な虐め対策などは無理でしょう。
今の子供って大人に怒られ慣れしてないせいか?注意するびっくりして感情をあらわにしますよね。ゆうきくんくらいならまだ体力で負ける気がしませんが、高校生ともなるとね~。弱腰になるんでしょうね~。
昔の不良はまだ良かったですね。今の真面目君の方が自分のレールからはずれると何をするか?わからない。
怖い時代なのかなー。
morimori様、体力次第ですが、高校生10人くらいが本気でかかってきたら私は殺される寸前までやられても不思議はないと勝手に察知してやめました汗。実はペットボトルを拾いに行ったユウキクンすらおにいちゃんたちに気づかれないように拾っていたくらいですから、、、。(その配慮はエライと思った。) 注意すると感情をあらわにする、それ自体は対等な意識から来るような気もします。年功序列が完全に崩壊していると仮定した世界では、注意されるというのはただの価値観の相違であってむかついて当然とも言えるかもなのです。俺は捨てたかったんだ、というような感じか。。。。。どちらが正当性あるのか、という議論で決着をつけていく、ということなのかなぁ。。 なにをされるかわからない、という部分で私はまったくそのとおりです。ビビリすぎなのか、、、どうなのか。今後ユウキクンも中学高校とアップグレードしていくので、そのうち自分もわかると思います。
私もあの時怒りにブルブル震えていた一人だけど、その怒りはあのおっちゃんの「酒飲み過ぎるクセ」にだけだね。だって普段は子供達に自分ちの洋ナシ畑でナシ狩りやらせてくれたり、あの日コドモらが楽しんだスイカ割りのスイカも彼が仕入れてきてくれたもの。フラワーロードも人知れず水くれしてくれている。私もヨッパライは大のニガテだけど、普段の彼を知ってるからなんとかスルーできたよ。とは言え酒で評判が悪くなるのは非常にもったいないけどね。とりあえず、一生懸命慰めてその場を収めた温厚な地区長さんが、彼が帰ったあと、私に「来年からアイツには酒だすな」とドスの聞いた口調で言っててああ、この人スゲー大人だと思った(笑)
いもうとちゃんもそうだったんだ。。もちろんボクも普段の彼をある程度知っているつもりなんだけど、だからショックだったんだよね。そして逆に酔って抑制されてないときだからこその「心の声」なんじゃねーの?て考えると複雑で。 (ちなみに「水くれ」が方言だって半年前くらいに知ってショックだったよ汗。) 地区長さんスゴイ人だね。そうだったんだ。。尊敬つーかボクの中で偉人レベル。